【No.103】2004.6.17 |
今日は写真に変なものが写っているのでお祓いをして欲しいという方が見えた。 折角遊びに出かけたのに、撮った写真に変なものが写っていては、楽しい思い出も皆吹き飛んでしまったに違いない。 ご神前でしっかりとお清めをして、ご参拝の方に大御守りをと祈りを捧げご祭儀を終えた。 写真のことはすっかり忘れ、楽しい毎日に戻られることを心よりお祈りしたい。 |
【No.102】2004.6.16 |
よしず張りで教室を涼しくという記事を見つけた。 限られた予算で工夫を凝らした結果、よしずを張ることになったというのだ。 昨日、犬の散歩をしているとマンションのベランダに風鈴が掛けられていた。 まだ猛暑とは言いがたい6月だか、鈴の音を聞くだけで涼しく感じてしまう。 よしず、縁側、風鈴、うちわ・・・ 古くから親しまれてきた、日本の蒸し暑い夏を涼しく過ごす様々な工夫。 これらは残念ながら都会では見られなくなってしまった。 エアコンは室内は涼しくするが、「趣き」という点では何も感じられない。 それに室外機から吐き出される熱風は都市部の夏をさらに暑くしている。 土や木が少なくなり、「趣き」など感じることさえ無理なのかもしれないが、マンションのベランダによしずや風鈴を使うのは、そんなに難しいことではない。 少し自然に戻ってみてはどうだろう。 |
【No.101】2004.6.15 |
メキシコ旅券を持つ4人組が国歌を歌えといわれたが歌うことができず、盗みを働いたコロンビア人4人が逮捕されたらしい。 こんな記事を読んでいて、ふと疑問に思った。 「うちの子は君が代が歌えるのだろうか?」 さっそく、子供に「君が代」という歌を歌えるか?と聞いてみた。 残念なことに「君が代は〜」しかしらないという答えが返ってきた。 東京では、公立校でも国旗掲揚と国歌斉唱をするようになったし、安心していたのだが、まだまだ全員にきちんと教えてはくれないらしい。 国歌を歌う機会は日常ではあまりない。 学校で歌う機会といえば、卒業式、入学式の2回ぐらいだろう。 自宅で親がきちんと教えなくてはいけないと反省した。 今、愛国心という言葉をめぐって議論がなされている。 公明は「国を大切にする心」にとどめるべきだと主張した。 私は「愛国心」で問題ないと思うが、愛国心という言葉自体に抵抗を感じる人はきっと多いのだろう。 これは分からないでもない。 これまで愛国心、国旗や国歌を大切にする心といったものが粗末にされてきた。 愛国心を入れて、ますます、抵抗を感じる人が増えるといった事態にならないことを祈りたい。 |
【No.100】2004.6.10 |
都立大森高校が髪を染めた生徒に元に戻すように指導し、戻さない生徒は欠席扱いにしたという。 「高校生の茶髪」がいけないものであると今の時代に言うのは少し無理がある気がする。 幼稚園の園児や小学校の生徒の母親の髪の毛は今どきの女子高生と同じような茶髪である。 説得力に欠ける気がしてならない。 ただ、都立高校で頭髪や服装を指導するのが難しい中で、大森高校が昨年から頭髪などの指導に乗り出したというのはとても勇気があることだと思う。 出席者を欠席扱いするのは生徒が可哀相な気もするが、ことなかれ主義で生徒を放任してしまうより、教員が大人として生徒を指導するという姿勢は今の都立高には必要なのではないだろうか。 そこで大人と子供の間でぶつかり合いが起こるのは同然だ。多くの大人はこれまでそのぶつかり合いから背を向けて見て見ぬふりをしてきた。大人も責任をもってきちんと指導をするのだ。 そもそも「教育」に「自由」は相容れないものだ。 「教育」には「強制」の部分がどうしても必要になる。「強制」の中で生徒たちの「主体的」な取り組みを促すということを同時に行うのだと思う。 「生徒が怖い」という先生もいるだろう。教員や大人をなめていて聞く耳を持たない生徒もいるだろう。しかし、両者が向き合ってはじめて新しい都立高ができるのではないか。 都立高校には伝統があり、著名人を輩出している学校も少なくない。 また、都立には都立の良いところがたくさんあると思う。 独自の生活指導をしながら、各校のよさを出していってくれたら都立の人気もあがるはずだ。 ただ、親の立場からすると、現状ではまだまだ生活指導が甘い都立ではなく、学校独自の方針によってしっかりと指導してくれる私立に行かせたいと思ってしまう。 |
【No.99】2004.6.9 |
愛犬が死にそうになりまるまる一週間入院した。 本調子ではないのだが、随分元気になった。 昨年の夏、茨城の海に連れて行ったときはとても元気だった。 あれから一年も経っていないというのに急に老いた感じだ。 この夏を乗り越え、まだまだ長生きさせないといけない。 小六女児殺害事件の加害児童に関する情報が随分とでてきた。 色々な情報から考えると、今回の事件は、思春期の入り口のとても複雑な時期に心の闇が肥大して異常行動となって現れたとも言うべきか。 誰にでも「闇」の部分はある。 しかし、普通の人はその闇をうまくコントロールしたり、溜まってしまったエネルギーを何かで発散するなどしてバランスを保っている。 子供ゆえ、その発散の仕方が分からなかったのか・・・ 今回の事件で加害児童が「バトル・ロワイヤル」や「ホラー小説?」に興味を持っていたと報じられたが、学童期、少年期、青年期に暴力、ホラーといったものへの関心が高まるのは危険信号といえるのかもしれない。 事件の原因として、見方や立場によって様々なものが出てくると思う。 例えば、ビデオの影響、ホラー小説の影響、学校のあり方や教員の質(ここに原因を求めては学校関係者がとても気の毒だと思うが)、バスケット部の退部、仲間はずれ、思春期の動揺・・・・ といった具合に。しかし、ある一時期の環境の変化や異常行動だけに目を向けても、それは「引き金」が何であったかの解明に過ぎず、根本的な原因までは行き着かないはずだ。 私は神道家という立場から、この事件を家庭崩壊への警鐘と受け止めている。 (別に、この加害児童の家庭が崩壊していたといっているわけではない。) 生まれてから幼児期、学童期と成長しながら、子供はスポンジに水を含む如く様々なことを学び、性格を作ってゆく。 そこでは、親や親に近い大人の影響が大きく、それらは家庭という場を中心に行われるからだ。 愛情を受けて育った子は他者への憐れみの心をもつ。 そして、自分は大切な存在であることを知る。 暴力を受けて育った子、愛情を充分に受けてこられなかった子は、他人や環境が信じられなくなくなる。 「自分の命は何ものにも代えがたい大切なものであり、だからこそ、自分の人生をより良いものにするために一生懸命生きなければならない」ということを成長の過程で気付き、それゆえに人のみならず生き物それぞれの命が皆大切であるということに気付けば、人を殺めるなどという行動は絶対に起こさないはずだ。 こういったことを伝えられるのは親しかいない。そして、これらを伝える場は家庭以外にない。 神様から授かった「尊い種」を宿している人が、家庭という土壌にあって、充分な水を与えてもらっていたら、一時的に少しぐらいの悪さをしたとしても、一線を越えるということはないだろう。 日々の生活では「大事なこと」が沢山出てくる。でも、それらの中で優先順位が一番高いのは「命」を育むということなのではないだろうか。 戦後、「家庭」は大きく変わった。しかし、一旦足を止めて、今の「家庭」というものを見直す時期に来ているのではないだろうか。 |